新谷 圭右
東京ガス株式会社 ソリューション事業推進部 サステナブルスター事業責任者
東京ガス株式会社 ソリューション事業推進部 サステナブルスター事業責任者。大手シンクタンクにて「不動産・まちづくり」や「エネルギー・サステナビリティ」に関する政策立案・経営コンサルに11年間従事後、イントレプレナー(大企業×新規事業)の道を志す。2020年より東京ガスの新規事業部署に所属し、100以上の新規事業アイデア創出、5つの事業立上、4つの頓挫を経験し、唯一立ち上がった「サステナブルスター」の事業責任者を務める。
大企業とスタートアップ、産・官・学・街との連携で事業創出を目指すオープンイノベーションプラットフォーム「TMIP(Tokyo Marunouchi Innovation Platform)」。2023年、2024年に引き続き、大企業発の“新規事業創出”を表彰する「TMIP Innovation Award 2025」が開催されました。

過去5年間に立ち上がった新規事業の中から、市場規模や革新性、社会課題の解決に対する姿勢など、さまざまな観点を踏まえ、次の時代を担う大企業発の新規事業を評価します。2025年11月7日、最終選考に進んだ5つの事業によるピッチを経て最優秀賞、優秀賞、日経ビジネス賞、オーディエンス賞、入賞を決定しました。
審査の結果、優秀賞と日経ビジネス賞のW受賞したのは、東京ガス株式会社(以下、東京ガス)の『サステナブルスター』です。
複雑化する不動産・REIT業界のESG(環境・社会・ガバナンス)業務を一変させるSaaSとして、急速にシェアを拡大している『サステナブルスター』は、いかに生み出され、その背景にはどのような思いと試行錯誤があったのでしょうか。本プロダクトの生みの親であり、事業責任者を務める新谷圭右さんに、『サステナブルスター』の物語を聞きました。
サステナビリティ担当者を疲弊させる、ESG経営を推進する業務における非効率さ
近年、世界的な潮流として、脱炭素やESG経営(環境(Environment)、社会(Social)、ガバナンス(Governance)を重視し、持続可能な成長を目指す経営手法)の重要性が叫ばれ、企業に求められる環境情報の開示ルールは、高度化・複雑化の一途をたどっています。10以上の国際的な制度が存在し、国内法への対応も含めれば、ESG業務(ESG経営を推進するための業務)の業務量は膨大かつ難解なものになっています。
新谷さんは、現場の苦境をこう説明します。
新谷さん「環境情報の開示に関する業務は、非常にアナログで非常に非効率な部分が多く、担当者の多くが疲弊してしまっているんです。
『企業の活動を数値化し、ルールに則って報告する』という意味で、環境情報の開示は『会計』に似ています。財務会計で扱う『円』や『ドル』という単位が、CO2の『kg』やガスの『㎥(リューベイ)』、電気の『kWh』に変わるだけ。扱う単位は違いますが、根本的な考え方は同じです。なので、環境情報の開示に向けた一連の業務は『炭素会計』と呼ばれます。
近年、財務会計を効率化するためのさまざまなプロダクトが登場し、業務効率は大幅に改善しました。『伝票を一枚一枚Excelに手入力して、集計する』なんてことは、ほとんどあり得ませんよね。一方で、炭素会計の世界には、その『当たり前』の業務インフラが存在していなかったんです」

東京ガス株式会社 ソリューション事業推進部 脱炭素化支援事業グループ サステナブルスター事業責任者 新谷 圭右さん
脱炭素の波が急激に押し寄せたのは、ここ5年ほどのこと。背景にあるのは、地球温暖化に起因する異常気象の頻発と災害の激甚化などです。開示制度が急速に整備される一方で、実務を支えるシステムの開発が追いつかず、報告義務を負う多くの会社の担当者たちは、手作業でデータをまとめ、多岐にわたるレポートを作成していました。
特に大きな課題を抱えているのは、数十、数百にも及ぶ自社物件を抱えるディベロッパーやREIT(Real Estate Investment Trust:不動産投資信託)事業を展開する不動産業界です。
新谷さん「不動産業を展開する企業は、GRESB(※1)やCDP(※2)TCFD、(※3)SSBJ(※4)、SBTi(※5)といった国際的な評価制度、そして国内のさまざまな法律に則ってレポートを作成しなければなりません。
運営・管理する各不動産から、月々の電気、ガス、水道の使用量データなど、数万、数十万点にも及ぶ環境データを集めるために、担当者がひたすらメールとExcelをやり取りしているのが現実です。ただし、一度計算すれば終わり、というわけではなく、制度ごとに報告すべき範囲や、所定の算出方法が異なるので、個別対応をしなくてはならない。データを蓄積するためのシステムは存在しているものの、各制度に応じた計算はExelで行うしかない。いわば、『Excelとメールのバケツリレー』のような状態になっていました。
『このビルの12月のガス使用量のデータがまだ届いていないぞ』と督促のメールを送り、届いたデータを手作業で集計し、毎年コロコロ変わる報告ルールに振り回されながら複数のレポートを作成する。そんな煩雑な業務に多くの時間を費やしてしまっており、『サステナブルに関連する業務が、サステナブルじゃない』という声がよく聞かれます」
不動産業界のサステナビリティに関連する部署の方々は、企業活動を通して社会をより持続可能な姿へ導くという、重要なミッションを背負っています。しかし実際には、多岐にわたるレポート作成のための作業に忙殺されてしまっているのです。
『サステナブルスター』は、そんな課題を解決するためのプロダクトです。データの収集からレポート出力までを一元化・自動化し、業務効率の大幅な改善を実現しました。

新谷さん「『サステナブルスター』は、不動産業を展開する企業が対応を求められるすべての制度をカバーしており、ワンクリックでそれぞれの制度で求められるレポートを出力します。
導入いただいているお客様からは『これまで1,000時間かかっていた業務が、100時間に短縮された』という声もいただいています。『サステナブルスター』は不動産業界における、ESG業務のあり方を根本から変えるプロダクトなのです」
※1:不動産やインフラセクターにおけるESGへの配慮度合いの評価・格付制度、およびそれを運営する組織
※2:企業や自治体が環境への影響を評価し、情報開示を促す国際的な非営利団体
※3:気候変動が経営に与えるリスクや機会を、財務情報として開示することを推奨する国際的な枠組み
※4:日本企業向けのサステナビリティ開示基準を策定する組織。2025年3月に基準が公表され、2027年3月期から時価総額3兆円以上の企業を対象に開示が義務化される。
※5:企業が科学的根拠に基づき、温室効果ガス排出削減目標を設定できるよう支援する国際的なイニシアチブ(組織)
4度の失敗から学んだ、「バーニングニーズ」を捉えることの重要性
では、新谷さんはいかにして『サステナブルスター』を生み出すに至ったのでしょうか。そのキャリアのスタートは、シンクタンクです。コンサルタントとして官公庁の政策調査や企業の計画策定に約10年間従事し、広い視野で社会課題と向き合う日々を送っていました。
転機が訪れたのは10年目のこと。会社が掲げた「シンク&ドゥタンク(考えるだけでなく実行する集団)」という方針転換に伴い、新谷さん自身もプレイヤーとして新規事業に関わることになります。
そうして、大企業のリソースを活用して新規事業の立ち上げ、社会課題の解決に貢献する「イントレプレナー」という働き方に大きな魅力を感じるようになったという新谷さん。事業会社でイントレプレナーとしてのキャリアを積むべく、2020年、東京ガスの新規事業開発に特化した部署の立ち上げメンバーとして転職。

当時のエネルギー業界は、電力・ガスの自由化によって参入障壁が崩れ、異業種からの参入が相次ぐ激動期。激変する環境の中で、東京ガスは、電気・ガスに次ぐ「第三の柱」を確立する必要がありました。そんな状況下で、新谷さんが立ち上げた新規事業は全部で4つ。
しかし、立ち上げた4つの事業は、すべて撤退か中断に追い込まれました。なぜ、ことごとく失敗したのか。新谷さんは要因を冷静に分析します。
新谷さん「失敗の理由はさまざまですが、4つの失敗すべてに共通していたのは『お客様の声に向き合えていなかった』ことです。僕たちのミッションは、第三の柱として新たな『ソリューション』をつくることでした。『ソリューション』とは、『解決策』ですよね。では、何の解決策なのかといえば、いわずもがな『お客様が抱える課題』のです。
僕たちは、そのことにしっかりと向き合えていかなったんです。つまり、4つの事業すべてにおいて、『誰の』『どんな課題を』解決するための事業なのかについて、解像度が低いまま事業を進めてしまっていた。
さらに言えば、『誰の』については明確だったとしても、『どんな課題を』については、お客様にとってそこまで緊急性の高くない課題、言ってみれば『もし、この課題が解決できたら助かるな』程度の課題にフォーカスしてしまっていたんです。お客様が抱える深刻な課題、いわゆる『バーニングニーズ』を捉えきれていなかった。それが、失敗の根本的な原因だったと思っています」
断られたアポイントの裏に隠されていた「成功への鍵」
度重なる失敗を経て、「バーニングニーズを知るためには、何よりもまず、お客様の声を聞かなければならない」と考えた新谷さんは、施設管理サービスの営業部隊との兼務を志願しました。
ビルのファシリティマネジメント(設備点検・清掃・警備サービス)の営業担当者として、さまざまな業界の企業を訪問したといいます。なかなか成果があがらない一方で、顧客との対話の中で「あるニーズ」の存在に気が付くことになります。
新谷さん「『ファシリティマネジメントは足りているから、再生可能エネルギーの導入をサポートしてほしい』と言われることが多かったんです。そこで、太陽光発電設備も取り扱うことにしました。太陽光パネルを設置し、収益性を確保するには大きな屋根が必要です。そこで目をつけたのが、物流倉庫業界でした。物流倉庫はエネルギー使用量が多く、屋根面積も広いため、再生可能エネルギーを導入するメリットが大きい。
ただ、物流倉庫はガスを使用しないので、倉庫業界への営業チャネルがあまりなかったんですよね。そこで、まずは接点をつくるために、物流倉庫業界向けのESGセミナーを企画したところ、100名ほどが集まってくださり、一気に顧客接点をつくることができました」

業界知識を学ぶ中で、物流倉庫を大量に保有しているのはREIT業界であることを知った新谷ささん。これまで接点のなかったREIT業界への営業を続ける中で、「私のキャリアにとってのターニングポイントになった」と振り返る出来事が起こります。
それは、2021年6月のことでした。
新谷さん「アポを取ろうとしたところ、何社からも立て続けに『6月は本当に忙しく、時間が取れないから7月以降にしてほしい』と、断られたんです。『なぜ、どこの会社も6月はこんなに忙しいんだろう?』と疑問に感じました。7月に入ってようやくお会いできた時に、その疑問をぶつけてみたんです。
すると、みなさんが口を揃えて『サスティナビリティ情報報告の締め切りが7月1日のため、6月中は他の業務に全く時間を割けず、徹夜することもしばしばだった』と。このとき『ここにバーニングニーズがあったのか』と思いました。ESGは、前職時代に10年間ほど携わった思い入れのある領域でもあり、この課題解決に本気で挑みたいと思うようになったんです」
プロダクトと課題解決への情熱が引き起こした「大逆転」
明確な課題を見つけた新谷さんは、撤退が決定していた新規事業をクローズするための業務を遂行したのち、本格的に不動産領域のESG業務を効率化するためのプロダクトづくりに着手。
2021年末に社内承認を得ると、外部ベンダーと協力して開発を開始。SaaSの開発経験はなかったものの、自ら要件定義やUIデザインを手掛け、わずか3ヶ月というスピードでベータ版を完成させます。「文字通り、寝食を忘れてサービス開発に没頭していた」とこの時期を振り返ります。
ベータ版は完成したものの、顧客に提供するには一定の時間が必要でした。インフラ企業である東京ガスは厳格なセキュリティ基準を設けており、開発したシステムをお客様に使ってもらうためには、3か月を要するセキュリティ審査を通過しなければならなかったのです。
新谷さん「3ヶ月もただ待っているのはもったいない。そこで、PowerPointで画面遷移を再現した紙芝居をつくって、不動産業界の企業を訪ねました。プロダクトの概要と機能を説明しながらフィードバックをもらい、その声をプロダクトに反映させていく。そうして完成度を高め、2022年7月7日に仮リリースし、9月には正式リリースへと漕ぎ着けました」

その後、無事に初の契約を獲得し、順調な滑り出しに見えたものの、すぐに大きな危機を迎えることになります。
大量の物件を登録するとシステムの処理速度が低下し、動作が不安定になる事態が発生したのです。あらゆる手を尽くしても処理速度はなかなか改善されず、お客様の利用開始期限も目前に迫る中、「バックエンドに関する知識がない自分が開発をリードし続けるのは危険だ」と判断した新谷さんは、プロダクトマネージャーをキャリア採用します。
新谷さん「そのプロダクトマネージャーは、プロダクトに込められた戦略や思いを深く理解しながら、プロダクトの完成度を高めるための陣頭指揮を取れる優秀な方でした。すぐに右腕となって、来る日も来る日もシステム改善に取り組み、お客様の利用開始までに最大の課題を解決してくれました。それ以降も、彼はUIの微調整から新機能開発、プロダクトの将来構想に関することまで全面的にリードしてくれて、現在は会社組織で例えるとCTO兼COO的な役割を果たしています。あと1か月、彼の入社が遅ければ取り返しの付かない事態になっていたかもしれません。本当にギリギリのところで支えてもらい、今があるんです」
必要なのはノウハウではなく、「ノウホワイ(know-why)」
数々の苦難を乗り越え、『サステナブルスター』は飛躍的な成長を遂げました。現在、導入企業は不動産業界を中心に250社を超え、『サステナブルスター』が管理する不動産資産の規模は約20兆円に達しています。
日本の収益不動産(家賃収入を目的とした不動産)市場は約300兆円(出典:ニッセイ基礎研究所「わが国の不動産投資市場規模(2024年)」)であるため、その約7%が『サステナブルスター』で管理されている計算となります。
そして、特筆すべきは、その顧客満足度の高さです。サービスの提供開始以来、解約率は0%。「お客様からは『繁忙期でも電車で帰れるようになった』『ESGのスコアが上がった』という喜びの声をいただいている」と新谷さん。
その満足度の高さから、口コミによって導入が加速。「『サステナブルスター』を業界のスタンダードにしたいから」と、顧客がさらなる顧客を呼んでくる状態になっていると言います。
なぜ、これほどまでに支持されるプロダクトを作ることができたのか。新谷さんは、その要因を「顧客課題の解像度」にあると胸を張ります。
新谷さん「プロダクト開発やマーケティングなど、事業推進に必要な要素はさまざまですが、それらはあくまで『手段』に過ぎません。事業の目的は『お客様の課題を解決すること』であって、最も重要なのは、すべてのアクションの起点が『お客様が抱えている課題』にあるかどうかです。
不動産業界のESG業務という『痛み』を、どれだけ高い解像度で捉えられているか。そこさえ間違っていなければ、解決策としてのSaaSの仕様も、マーケティング戦略も、自然と導き出されます。
たしかに、私たちにはSaaS事業のノウハウはありませんでした。ですが、ノウハウをもっているかどうかはあまり重要ではないと感じています。それよりも重要なのは、ノウホワイ(Know-Why)です。なぜそれをやっているのか、自分たちはどこを目指しているのか、誰の役に立ちたいのか。常にそれらを解像度高く理解しておくことが、困難を乗り越える原動力になり、お客様に必要とされるサービスを生み出すのだと思います」
本業の変革を促す、新規事業の「真の価値」
さまざまな壁と困難を乗り越え、不動産業界が抱える大きな課題の解決へと突き進む新谷さん。今回、「TMIP Innovation Award 2025」に応募した背景には、そんな「物語」を伝えたいという強い思いがありました。
新谷さん「『サステナブルスター』はこれまで、広告をほとんど打たず、口コミだけで広がってきた『知る人ぞ知る』サービスでした。REIT業界では知られていても、それ以外の業界ではまだ認知度が低いのが現状です。しかし、今後はディベロッパー業界や金融業界にも展開し、さらに課題解決を加速させていきたいと考えています。
そのためには、『お客様』はもちろんのこと、共にプロダクトを成長させてくれる『仲間』が必要です。そのためには、プロダクトの機能だけではなく、これまでの『物語』を発信し、深く『サステナブルスター』というプロダクトを理解していただかなければならないと思っています。
現在、私たちのお客様の9割が、東京駅から半径500メートルに集中しています。この丸の内という場所から、サステナブルスターという事業が持つ『物語』を発信し、それに共感してくれる人々と繋がりたい。これまでのTMIP Innovation Awardを拝見している中で感じたのは、出場企業やプロダクトのストーリーを大事にしてくれるということ。だからこそ、この場所に参加したいと思ったんです」
そんな思いから出場したTMIP Innovation Award 2025において、『サステナブルスター』は優秀賞と日経ビジネス賞をW受賞。審査員を務めた、一般社団法人スタートアップエコシステム協会 代表理事の藤本あゆみさんは、「バーティカルに、特定業界の特定業務を深く理解しているからこそできることがある。そんなことを示す好例だと感じた」とコメントを寄せました。

最後に、新谷さんは「最近は、大企業が新規事業に取り組むことの意味をよく考えるんです」とし、その「意味」をこう語りました。
新谷さん「一つは、『遠心力』としての新規事業です。カーブアウトやスピンアウトによって、本業の外側に“衛星”のように事業を生み出し、グループ全体をスケールさせていく。新規事業には、そんな遠心力を生み出す働きがあると思っています。
そしてもう一つは『求心力』です。これは、新規事業が本業そのものを変革する力になるということです。たとえば、東京ガスが将来、脱炭素ファースト・デジタルファーストな企業として生き残っていくために、『サステナブルスター』が変革の起爆剤となる。そんな役割もあるのではないかと考えています。
現段階で『サステナブルスター』は東京ガスの一事業であり、今後『遠心力』と『求心力』、そのどちらを生み出す存在にしていくかはまだ決めかねていますが、常に『お客様が抱える課題を解決し、社会にインパクトを提供すること』を起点に、事業成長を続けていきたいと思っています」

最終選考会・表彰会で実施されたピッチは、グラフィック・クリエイター 春仲 萌絵さんによってリアルタイムでグラフィックレコーディングにまとめられた