菅谷 百合子
住友商事株式会社 新事業投資第二ユニット 介護DX事業チーム 主任
1992年に住友商事株式会社入社。鉄鋼製品の貿易実務を10年担当。社内の商事活動50周年懸賞論文で「住友商事の社会貢献活動のあり方」を提言し、入選。それを機に現在のサステナビリティ推進部へ異動し、CSRとして、社会課題の解決に20年取り組む。NPO・NGO、地域や行政と協業し、0から1で課題解決の仕組みを複数立上げた。50代で親の介護を経験し、介護業界の課題解決に挑戦するために社内起業制度に応募し、介護業界向け間接業務削減SaaSを立ち上げ。介護職の間接業務を軽減し、やりがいを感じる介護業務に集中できる環境づくりに貢献することを目指している。
大企業の新規事業創出支援や大企業とスタートアップ、産・官・学・街との連携で事業創出を目指すオープンイノベーションプラットフォームTMIP(Tokyo Marunouchi Innovation Platform)。2023年、2024年に引き続き、大企業発の “新規事業創出”を表彰する「TMIP Innovation Award 2025」が開催されました。

過去5年間に立ち上がった新規事業の中から、市場規模や革新性、社会課題の解決に対する姿勢など、さまざまな観点を踏まえ、次の時代を担う大企業発の新規事業を評価します。2025年11月7日、最終選考に進んだ5つの事業によるピッチを経て最優秀賞、優秀賞、日経ビジネス賞、オーディエンス賞を決定しました。
本記事では、オーディエンス賞を獲得した住友商事株式会社(以下、住友商事)の介護DXサービス『FIKAIGO』を取り上げます。深刻な人手不足が叫ばれる介護業界において、現場のアナログな業務のデジタル化を推進するこのサービスは、どのようにして生まれたのでしょうか。
家族の介護に直面した経験から社内起業制度に応募し、『FIKAIGO』の事業化を実現した住友商事 新事業投資第二ユニット 介護DX事業チームの菅谷百合子さんに、事業立ち上げの背景と、大企業で新規事業を推進する苦悩、そして大企業ならではの「グループ力」を結集したからこそ生み出せた価値と未来について、詳しくお話を伺いました。
社会課題を解決する手段はボランティア、CSRから「ビジネス」へ
学生時代からボランティア活動に携わり、社会課題の解決に関心を持っていたという菅谷さん。周囲の友人がJICAなどのNGOに進む中、「日本を動かしているのは企業だ」という思いから、1992年に住友商事の門を叩きました。
配属されたのは鉄鋼部門。30数年前は、現在と比較すると社会的に長時間労働が許容され、今よりも男性優位な環境でもありました。菅谷さんは「しばらくの間は、名刺すら持たせてもらえなかった(笑)」と振り返ります。そんな逆境の中でも、菅谷さんの社会課題に対する意識は揺らぎませんでした。
入社から4年後の1996年、同社の商事活動50周年を記念して開催された懸賞論文において「住友商事の社会貢献活動のあり方」に関する論文を提出し、見事入選。まだCSRという言葉も一般的でなかった時代に、企業の社会的責任について論じたのです。
このことをきっかけに、2003年には広報部社会貢献チーム(現 サステナビリティ推進部)に異動。菅谷さんは、ここで障がい者支援や奨学金支給などに関する業務に従事。「社会課題の解決に貢献している実感があり、とてもやりがいがありましたし、何も言うことはないと思っていました」と語ります。
しかし、充実した日々の中で、菅谷さんの心には次第にある違和感が芽生えていきます。
菅谷さん「営業部門から『商社の本業としては成立しなさそうだが、社会的意義が大きいからそちらの部署で取り組んでもらいたい案件がある』という相談が来ても、部の位置づけや使命の違いから断ることが続いていました。
当時の私たちは、営業部門のみなさんが稼いだお金を使いながら社会課題にアプローチしていたのに、懸命に事業で社会課題解決に取り組んでいる方々の願いは断らないといけない。そのことに対して『何かが違うな』と違和感を持ったんです。その違和感は次第に、『事業で社会の課題を解決したい』という思いにつながっていきました」

住友商事株式会社 新事業投資第二ユニット 介護DX事業チーム 菅谷百合子さん
「当事者」としての決意。400人の声から見えた真の課題
事業による社会課題の解決を志し始めた菅谷さん。その思いが明確な形を持ち始めたのは、50代に入り、プライベートに大きな変化が訪れた時でした。
菅谷さん「50代に入り、義父、実の両親、そして叔母と次々に親族の介護に直面することになったんです。先月、父が亡くなったのですが、生前は要介護5(要介護度が最も高い段階。日常生活のすべての局面で介護が必要)で、寝たきりで胃ろう(胃に直接栄養を入れること)でしたし、本人も、私を含めた周囲も『死んだ方が楽なのではないか』と思うような状態でした。
そんな状態が2年ほど続いたのですが、本人は間違いなく幸せに生きていたと断言することができます。そう言えるのは、介護職や看護職の方々が本当によくしてくれて、単に身体的介護の提供にとどまらず、『人生最期の友』のように寄り添ってくださっていたからです。介護や看護をしてくれた方々との関係性に生かされた2年間だったなと思っていますし、本人だけではなく、私たち家族も本当にお世話になりました」

介護に従事する方々への深い感謝の念が、介護業界が抱える課題へと菅谷さんの目を向けさせます。特に、介護業界の人手不足問題は深刻です。介護業界の3年未満離職率は61%であり、介護職の平均年齢は47.7歳と従事者の高齢化も進んでいます。一方で介護へのニーズは高まり続けており、その結果として2040年には介護職員が57万人不足するという推計も存在します(令和7年5月9日発表 厚生労働省社会・援護局『介護人材確保の現状について』)。
この大きな課題を解決する事業を立ち上げるべく、菅谷さんは2019年、社内起業制度「0→1チャレンジ(現・0→1 Next)」に応募します。当初、菅谷さんは離職を食い止めることが重要と考え、介護職員向けのピアメンタリングサービスを構想していたといいます。しかし、現場に立つ職員たちと対話を重ねる中で、人材不足という課題の「真因」を知ることになり、事業内容の変更を決断します。
菅谷さん「22、23歳で入職して3ヶ月後には夜勤に入り、自分が見に行った時に利用者さんが亡くなっていた、という経験をすることもあります。『30分早く見に行けていたら』と後悔に苛まれる方も少なくありません。それに、夜勤明けは倒れこむように眠るだけという方も多く、スキルアップや心身のケアに時間を割けないという問題もある。
そんな現場の課題をより深く知り、相談に乗るための場を設け、延べ400人ほどの方々と対話を繰り返しました。その中でわかったのは、介護現場のアナログさが、人間関係の悪化や業務の非効率さを生み出す“地雷”になっていること。
つまり、アナログな作業が長時間労働やミスを生み、そのミスが精神的な疲労や職場内の人間関係悪化を招き、それらが離職につながる大きな要因となっていると気付いたのです」
「たとえば」と言いながら、菅谷さんが見せてくれた資料に写し出されていたのは、冷蔵庫に貼られた手書きのシフト表。「現在でも紙媒体でシフトの管理をしている介護施設は少なくない」と菅谷さん。つまり、従業員はシフトの希望を紙媒体に手書きし、それを提出。管理者はそれらをまとめ、シフトを作成したのち、紙媒体に出力した上で決定したシフトを周知しているのだといいます。
さらには、施設内で起こったさまざまな事故を「絵日記のような手書きの事故報告書」にまとめ、それを回覧板のように従業員間で回すことで事故の周知を図っているケースも。

菅谷さん「入居者の排泄管理などの情報は、最終的には介護ソフトに記録されるのですが、ここにも問題があります。職員全員が介護ソフトのIDを持っているわけではなく、IDを持たない職員は『いつ、誰が、何時にどれくらいの排泄をしたか』を手書きでメモし、それらを集めた主任さんなどが一括でシステムに入力しているんです。
各職員が『いつ、誰が、何時にどれくらいの排泄をしたか』を手書きでメモし、それらを集めて担当者が一括でシステムに入力している。そんな非効率が当たり前のように存在するのが、介護現場の現状です。メンタルサポートをする以前に、この非効率さをどうにかしなければ、人材不足という課題は根本的に解決できないと感じました」
「誰のどんな課題を解決すべきか」。その答えは「現場」にある
「社会課題を解決したい」というぼんやりとした思いから、「介護現場のアナログ業務を解消する」という具体的な課題へと焦点を絞り込んでいった菅谷さん。しかし、事業創造の道のりは平坦ではありませんでした。
菅谷さん「私は事務職で入社していますから、マネジメント経験もゼロですし、ITリテラシーは高くなく、プログラミングもできなければ、プロダクトマネジメントもできません。謙遜ではなく、本当にいろいろできないんです。『アナログな業務を解消して、介護業界に貢献したい!』と宣言したはいいものの、何から手を付ければいいのかさえわかりませんでした」
そんな菅谷さんを支えたのが、「0→1チャレンジ」の仕組みでした。同制度に応募すると、外部メンターや事務局が壁打ち相手となり、応募者の案をブラッシュアップするサポートをしてくれるのだそう。菅谷さんは「メンターから何百回も『誰のどんな課題を解決するの』と問われ、必死にその答えを考える中で、だんだんとプロダクトのイメージが定まっていった」と振り返ります。
そして、より具体的にイシューを設定するために菅谷さんが何よりも重視したのが、「現場」でした。
菅谷さん「コロナ禍の最中ではあったのですが、細心の注意を払いながら何度も介護施設を訪ね、実際の業務の現場を見させていただき、現場の声に触れました。3日に1度は介護施設を訪ねていましたね。もちろんオンラインでお話を伺うこともありましたが、とにかく現場に行って、間近で業務を見せてもらったんです。
その中で見えてきたのは、アナログな業務の中でも特に大きな負担になっているのが『シフト管理』だということ。100床規模の施設では、シフト作成だけで月40~50時間、関連業務を含めると70~80時間もの事務作業が発生していることが判明しました。
まずはここをどうにかしなければならないと思い、介護現場のシフト作成・管理をDXするプロダクトをつくることに決めたんです」

「初期段階の製品と紙芝居」で勝ち取った大手企業への導入と事業化へのGOサイン
「現場の最大の課題はシフト管理にある」と確信した菅谷さん。しかし、総合商社である住友商事にとって、介護DX事業は本業とは遠い「飛び地案件」でした。
菅谷さん「現場のみなさんの声から、間違いなくニーズがあることはわかっていました。社内起業制度が定めるゲートも一歩一歩クリアしたものの、容易に事業化に進んだわけではありませんでした。介護分野は『飛び地案件』でしたので会社からは『サービスの真のニーズを確認するために、大手事業者から利用確約などを得ること』という条件が課されました。ちょうどその当時、業界最大手のSOMPOケアが、シフト作成ソフトの導入を検討しており、すでにコンペを実施していたことを知り、そこに当社も滑り込みで参加させていただきました」

すでに応募は締め切られていたものの、菅谷さんの熱意が伝わり、コンペに参加できることに。しかし、初期段階の製品しか存在しません。そこで、菅谷さんが用意したのは「紙芝居」でした。
菅谷さん「比喩ではなく、物理的な紙芝居です。最終の製品は、どのような機能を具備し、何ができるようになるのかを説明するためのパワポ紙芝居をつくりました。
振り返ってみると、『よくあれで勝負したな』と自分でも思います。プレゼン資料として、決して質が高いものだったとは言えませんし、むしろひどい出来だったのではないでしょうか(笑)」
しかし、結果は採用。その理由を菅谷さんはこう分析します。
菅谷さん「SOMPOケア側の担当者の多くが、介護業界全体を良くしたいという、私たちと同じ思いを持った人たちだったことが大きかったと思います。SOMPOケアは、今すぐ使い始められる既存のプロダクトではなく、業界全体に資するプロダクトをつくるために要件定義に参加し、業務知見を惜しみなく提供してくださった。それに、『住友商事』という看板も大きな役割を果たしてくれたのではないかと。
住友商事は膨大なリソースを備えていますし、グループにはSCSKという大手SIerもいます。SOMPOケアが運営する施設で働く、約1万人の方が利用できる規模のシステムを安定的に運用できる体制を、ローンチと同時に構築できると評価していただいたことが、SOMPOケアに採用いただいた大きな要因になったのではないかと思っています」
大企業が持つ「信用」と「アセット」を最大限活用する
「大手企業から受注する」というミッションを達成したことで、事態は一気に動きます。
菅谷さん「大手企業の強みの一つは、人材の豊富さだと思います。SOMPOケアさんへの導入が決定するやいなや、経験豊かなプロジェクトマネージャーとエース級のリーダー、介護領域に思い入れのある優秀でやる気がある若手の営業担当者などがチームに加わり、7人のチームが編成されました。そうして一気にプロダクトづくりが加速し、『FIKAIGO』が誕生しました」

『FIKAIGO』の最大の特徴は、介護業界特有の複雑なルールに完全対応していることです。介護保険法に準拠した人員配置や、介護業界の慣習である「遅番の翌日は早番を入れてはならない」など、介護施設におけるシフト作成業務には、他業種にはないさまざまな制約やルールが存在します。
『FIKAIGO』はそれらをすべてシステムに組み込み、人員基準やサービス提供体制強化加算(介護福祉士を含めた介護職員の配置を強化し、質の高いサービスを提供する介護施設・事業所を評価する加算)をクリアしているかを自動でチェックし、クリアしていない場合はアラートでお知らせする仕様となっています。
また、各施設で利用している様々なシフトパターンが自由に登録でき、常勤・非常勤・パートなどの働き方に合わせて柔軟に条件を設定可能。従業員はスマートフォンからシフトを提出できるなど、『使いやすさ』にも徹底的にこだわっています。
菅谷さん「私は決してITに精通しているわけではありませんが、そんな私でも『使いやすい』と思えるものにしたいと思ったんです。『FIKAIGO』のUIはExcelライクでシンプル。説明書を読まなくても、誰でもすぐに利用できるように設計されています。価格も1IDにつき月額700円と、介護施設が導入しやすい価格設定にこだわりました」

菅谷さんはこれまでの経験を振り返り、大企業の中で新規事業を立ち上げることのメリットをこう語ります。
菅谷さん「最大のメリットは、大きな社会課題を解決できることです。組織の力で大きな課題にアプローチできるし、それを解決するためのアセットもある。これは、事業創出の辛さを忘れさせてくれるくらい、大きなメリットだと思っています。
そして、もう一つが『信用』です。先ほども触れたように、『住友商事』の事業だからこそ、SOMPOケアは導入を決定してくださったのだと思っていますし、その後、会社がサポートしてくれなければ、私は『詐欺師のおばちゃん』になっていたかもしれません(笑)。
住友商事という看板があったからこそ、大手企業にも話を聞いてもらえ、導入にもつながった。『信用』があるということは、大企業ならではの強みです」
目指すのは、あらゆるアナログ業務のDX
『FIKAIGO』は、まず現場の最大の課題であったシフト管理の領域でシェアを取り、介護現場の質の向上と、最適な人員配置の実現を目指しています。しかし、菅谷さんが見据えるのは、その先にある「介護現場全体のDX」です。
菅谷さん「やりたいことは山ほどあります。たとえば、父を施設に預けていたとき、施設からしょっちゅう電話がかかってきました。『胃ろう用のアクエリアスを持ってきてください』といった緊急性の低いものもあれば、『体調が急変した』という極めて重大なものもありました。
どのような内容の電話であっても、仕事などをしていると電話を取り逃してしまうことがありますし、逆に『何かが起こったのではないか』と会議を中座してまで電話に出たこともあります。連絡手段のデフォルトが電話では、忙しい合間を縫って電話をかけてくれる相談員にとっても、電話を受ける家族にとっても負担になると感じていました。
そういった経験から、施設と入居者のご家族とのチャット機能も実装したいと思っています。さらに言えば、さまざまなECサイトとも連携し、チャットで依頼された物品を『FIKAIGO』上で購入して施設に送る機能も実装したいです。施設の従業員だけではなく、利用者のご家族の体験も向上させる、そんなプロダクトにしたいと考えています」
シフト管理を皮切りに、介護現場に存在するあらゆるアナログ業務をDXするプラットフォームへ——『FIKAIGO』の挑戦はまだ始まったばかりなのです。
そして、介護現場の課題とサービスの認知拡大を目的に参加を決めたという「TMIP Innovation Award 2025」で、『FIKAIGO』は見事にオーディエンス賞を受賞。審査員を務めた新規事業家の守屋実さんは、『FIKAIGO』の将来性をこのように評しました。
守屋さん「スタッフの稼働時間のデータと入居者に関するさまざまなデータが取れるのであれば、その施設全体の効率性なども明らかにできるのではないかと思います。であれば、『FIKAIGO』は与信調査などにも生かすことができ、金融事業にも展開できるのではないかと。そういった意味で、この事業のスケーラビリティは大きいと思います。
住友商事という超大手企業の中で取り組むのであれば、そこまでいけるはずですし、さらなる大きな展開を見据えて事業を続けていってもらいたいです」
最後に、菅谷さんのように大企業に所属しながら新規事業に挑戦しようとしている人々へ、メッセージをもらいました。

菅谷さん「まだ介護業界のプラットフォーマーとして事業が成功したとはいえませんが、私でもここまで来ることができたので、みなさんにも必ずできます。
私は起業家として、大した能力があるわけではありません。というより、こと社内起業においては、高い能力は求められないのだと思います。
それよりも大切なのは、情熱と『こうしたい』という思いを発信し続けることなのではないでしょうか。発信することで、共感を得て、志を同じくする人が集まってくる。そして、私があれこれできないからこそ、できる人が助けにきてくれて、事業がその人たちの『自分ごと』になると、事業は一気に進み、それはやがて社会課題の解決につながっていく。それこそが、大企業で新規事業に取り組む醍醐味だと思います」

最終選考会・表彰会で実施されたピッチは、グラフィック・クリエイター 春仲 萌絵さんによってリアルタイムでグラフィックレコーディングにまとめられた